一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

宗旦四天王という称号について。

当流を紹介するにあたり手っ取り早く説明するのに使われる称号に表題の「宗旦四天王」という呼称がある。
流祖山田宗偏および藤村庸軒と杉木普斎は変動なく、もう一人を三宅亡羊か久須美疎安のどちらかにするのが通例であると思う。
四天王というからには意味合い的には当然の如く、宗旦居士から皆伝を得られ尚且つ皆伝者の中でも特に優れた高弟への称号という事になろう。
しかしながら実際には、それを確証するに足りる証拠を探そうとした場合、山田宗偏以外は何一つ根拠がないのが実情である。
少し前の資料であるが、2007年11月号の知音に熊倉功夫先生が書かれた「千宗旦と山田宗偏(一)」の末尾にこのように書かれている。
「いわゆる宗旦四天王の中で、弟子衆としては宗偏一人だけで、他の人々があげられていないことは注目されよう。
藤村庸軒は親族で、弟子とは別の区分であろうから、このリストに含まれないの当然として、杉木普斎、三宅亡羊、松尾宗二などの名がないことは、宗旦四天王という名辞がほとんど意味をなさないことを示すと同時に、山田宗偏の門弟のなかの位置をよく表しているともいえるであろう。」
弟子衆控に掲げられている人数は総勢三十四名であるが、宗旦から楽只三種を贈られた松尾宗二ですらその中に名が載っておらず、儒者の三宅亡羊は単に宗旦居士の友人や知人といった位置付けなのかもしれない。
親類の藤村庸軒は久田宗栄の次男で、兄の長男は久田宗全であるし、その弟は江岑宗左の養子となって表千家五世を継いだ随流斎宗佐であり、完全な千家との血縁であるので宗旦から明確に皆伝を得られる必要性もないであろう。
また久須美疎安は庸軒の女婿であるので、庸軒ですら皆伝の確証がないのであるからその血縁の範疇に含まれると思う。
御師であった杉木普斎に至っては宗旦に入門したのは間違いなさそうであるが、実は宗旦は普斎に皆伝を授けていない。
宗旦没後に杉木普斎に皆伝を授けたのは宗旦の次子で官休庵を興した一翁宗守である。
先にも述べたが、宗旦の皆伝者の中でも優れた門弟への称号である四天王に普斎を入れる事は事実を無視したものであるし、時々流祖の著書の対比として扱われる「普斎書き入れ便蒙抄」なる杉木普斎が便蒙に註訳を加えているものが取り上げられているが、茶の湯を秘事口伝として扱った普斎と流祖では全く相容れない対照的な存在であると思う。
また熊倉先生は宗旦四天王という呼称は昭和に入ってからの呼び名でなかろうかとも述べており、有名無実なこの称号について疑問を投げ掛ける次第である。