一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

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宗旦四天王という称号について。

当流を紹介するにあたり手っ取り早く説明するのに使われる称号に表題の「宗旦四天王」という呼称がある。 流祖山田宗偏および藤村庸軒と杉木普斎は変動なく、もう一人を三宅亡羊か久須美疎安のどちらかにするのが通例であると思う。 四天王というからには意…

第十七 及臺子之事 その二。

○臺子を伝授するは、其の点前熟し、其の人品の善悪を見るべし。意の異なる人は、貌も異なり。直ぐき人は、貌も直ぐしと云えり。点茶の貌直ぐなれば、自然に心にようべし。然る則りは、極意は心気の執行専要なり。豈業のみにあらざる哉。茶道心を得るは、忠恕…

利休居士之一枚起請の文。

写真は流祖の高弟、三河吉田の三高足の一人倚松軒帰誉の利休居士之一枚起請の写しです。 その下に流祖像が描かれてる画賛の賛の部分です。 意訳は以下の通り 「唐土我朝にもろもろの知者の沙汰申さるる観念乃茶の湯にもあらず。また学文をし天ねんの心をさと…

幕末、明治期の各派の状況 その九。

これで父と娘の了解成り、父は即刻水月師を訪問し、今日まで時習軒を等閑にせしを詫び、自分が後見となり娘は有難く時習軒を拝受する旨を答えました。水月師はこれでいつ何ん時死んでも時習軒の相続人は細田伊登と云う立派な茶人が継で呉れ、自分としては歴…

幕末、明治期の各派の状況 その八。

大変ご無沙汰しております。 とある方よりご要望があり、続きを書かせて戴きます。 これは昭和三○年六月二五日に刊行された時習軒会報(時習 十四号)に掲載されたもので、 「八世宗衛 時習軒継承のこと」という表題がついている。 早速娘伊登に申し渡すと「…

幕末、明治期の各派の状況 その七。

偖当日は早朝心身を清め、父親に伴はれ脇坂邸へ上がりました。 当日の服装、髪の結方等は祖母から聞きましたが、少年時代の私や武曽師も男子の事とて餘り興味もなく、総て失念してしまいましたが当日の模様で記憶している事を綴りますれば、脇坂様では両殿下…

幕末、明治期の各派の状況 その六。

話は前に戻り、脇坂様の献茶に半東が必要という。 時の宮内府の達しで、半東は宗徧流中の皆伝者で少女に限ると云う事で、宗徧流広しと雖も少女で皆伝はおろか奥伝さえなく、八方捜した結果八世は十七才で幸にも少女であり、奥伝を許されていましたので(二号…

幕末、明治期の各派の状況 その五。

四ヶ月ぶりの更新です。 家元より貴重な資料のコピーを頂戴しましたので、転載して私見も述べていきたいと思います。 これは昭和二八年一月二十日に刊行された時習軒会報(時習 五号)に掲載されたもので、 「脇坂安斐が明治天皇へ献茶の際 八世宗衛が半使を…

幕末、明治期の各派の状況 その四。

では、この明治中期以降の当流の活動を関口家の視点から覗いてみたい。 その前に、この当時から現代に至るまでの各派共通の問題点があるのでここで述べて置きたい。 これも前述の参考文献である「空のなごり」から抜粋、要約する。 この文献の著者は、宗徧血…

幕末、明治期の各派の状況 その三。

前回の投稿にて安斐侯に譲られた「力囗斎」の板額について、実は養父の安宅侯に既に時習軒七世吉田宗賀没後に水月尼より譲られていたという新事実が、以前より参考にしている廣田吉崇氏の最新の研究ノートに記載されていたので訂正し、また安斐侯については…

幕末、明治期の各派の状況 その二。

前述の廣田氏の著書の一項「貴紳の茶の湯」は、東久世通禧卿を中心に描かれていて当時の茶の湯の状況も垣間見えてとても面白い。 通禧卿は明治政府の高官として、様々な官職を担う中で千家との接点も何度かあったのにも関わらず茶の湯に興味を示さなかったが…

幕末、明治期の各派の状況 その一。

とても久しぶりの投稿です。 当流に限らず、幕末明治の混迷は大名家の扶持を離れた茶家にとっては辛く厳しいものであったと聞き及ぶ。 大まかには以前、当ブログでも掲載しているので、そちらを参照して貰いたいが今回はその各派の詳細について書いていきた…

盆立の事 陸安集別冊 その二十三

第八 茶盛の事 一、棗、盆に載する事なし。盆点は、名物の陶ばかりなり。 一、袋の緒締の事、長緒は、用いず。 一、服紗絹の事、茶入・盆・茶杓、共に、真に畳むべし。 第十 茶杓の事 一、盆立時は、必ず象牙又は、珠光を用うべし。盆立は、古法なる故に、器…