一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

第十七 及臺子之事 その二。

○臺子を伝授するは、其の点前熟し、其の人品の善悪を見るべし。意の異なる人は、貌も異なり。直ぐき人は、貌も直ぐしと云えり。点茶の貌直ぐなれば、自然に心にようべし。然る則りは、極意は心気の執行専要なり。豈業のみにあらざる哉。茶道心を得るは、忠恕にもなり、修身斉家すべし。唯、風流と而己の心得は、富者は奢りに至り、侘人は異形になる。過ぎたると及ばざるの差、無き事を心にかくべし。動静二人の善を見ては、これに学び随い、不善を見ては顧みて改むべし。自糞の臭きは知れず云う。

及臺子の項に書かれている一文であるが、現代に新しいものを求める人がいる。
歴代の宗匠方が茶の湯を業としてその生涯を賭して築き上げて来たものを当流では活字で学べるのは本当に有り難い事である。
古い友人は、畳の上では利休は超えられないとまで言い切ったが、現代の我々が趣味として茶の湯に親しむレベルで新しいと思っている事は既に過去に捨てて行った事柄であると思った方が無難であるし、一挙手一投足にまで事細かに制定されている口伝部分も同様であるように思う。
奢った富者や異形の侘人が跋扈し、これが茶の湯と言わんばかりの現状に今後どう対応していくべきなのか。
答えは既に出ているが、元に戻す所業の難しさを想った時にこの陸安集がその指針としてかけがえのないものである事は間違いないし、これを残された当流の先人たちへの報恩を胸に次代へ繋げて行きたいと思う。