一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

2007-03-01から1ヶ月間の記事一覧

「宗徧の庵号、その書付について」

宗徧の庵号、その書付について宗徧は生来、手先が器用であったとされ、茶杓や花入の他、前述の内焼きと称される茶盌や香盒など驚くほど多くの自作の道具を残し、それが現代に伝わっているが、これに関連して以前より疑問があった。それは、元禄十一年(1698)…

「宗徧の庵号、空白の期間について」

宗徧の庵号、空白の期間について宗徧は宗旦から皆伝の証として利休伝来の四方釜を譲られ、これにちなみ自らの庵号を「四方庵」とし、小笠原家任官後もこの庵号を用い続けたといわれている。この四方庵の庵号は延宝二年(1674)に新城藩主菅沼定実侯に譲られ…

江戸へ(草庵の侘び茶)

江戸へ(草庵の侘び茶) 宗徧は元禄十年(1697)小笠原家の武蔵岩槻への転封を機に藩の茶頭を致仕し、役目を二世宗引に譲って江戸へ出、本所二ッ目に庵を構えた。 宗徧は翌元禄十一年(1698)十月七日に門人らの勧めにより「利休宗易居士四代不審庵」を襲名した…

「不立文字と三大著書」

不立文字と三大著書 宗徧が元禄三年(1690)に「茶道便蒙鈔」を、翌元禄四年(1691)には「茶道要録」、そしてその十年後元禄十四年(1701)に「利休茶道具図絵」を刊行したが、これらに関しては出版以来多くの茶人、批評家が賛否両論を唱えているのでここで…

「宗徧の父、山田道玄」

宗徧の父、山田道玄多くの資料に、宗徧の小笠原家仕官の頃より突如として現れてくるのが、長徳寺四世仁科明覚こと宗徧の父山田道玄である。この道玄は、周覚が還俗し千家流の茶人として鳴滝三宝寺に独立する際に再度長徳寺に戻り、承応二年(1653)に寺を浄…

「三河における宗徧の高弟たち」

三河における宗徧の高弟たち宗徧は三河吉田または参勤交代先の江戸にて多くの門弟を育てた。四二年間という長きに渡り、小笠原家の茶頭として千家流の普及および門弟の育成に力を注いだのである。その顔ぶれをみると基本的には小笠原家の家臣が中心で、その…

「仕官の茶」

仕官の茶 宗徧は三河吉田の小笠原家に四二年間〔承応四年(1655)~元禄十年(1697)〕四代に渡り茶頭として仕えた。石高としては三十石五人扶持を給され、特に百石格、帯刀を許されるという待遇を得た。 初代藩主の忠知侯は徳川家康の曾孫(嫡男信康の息女…

「形見の根太香合」

形見の根太香盒 宗旦が死去した後、宗徧には形見としてのんこうの赤楽根太香盒が贈られた。楽家ではその後も歴代がこの写しを造っている。 また、この形見の根太香盒には、宗旦の遺児三人の連署が認められた添状が付随する。 この添状は貴重な資料にもなって…

「楽家三代道入」と「赤茶盌初音の箱書について」

楽家三代道入宗徧が三河へ下向した翌明暦二年(1656)、楽家三代道入(吉兵衛、通称のんこう、没後道入と諡される)が没した。享年五八歳であった。道入は、父常慶とともに本阿弥光悦と親交をもち、光悦の依頼で茶盌用の土や釉薬を提供したり、光悦手捻りの茶盌…

「仕官の茶そして草庵の茶」続編

続いて短編「仕官の茶そして草庵の茶」を掲載致します。 前回までの内容と重複したり、相反する事が書かれている箇所がいくつかございますが、新たに発見した事や気付いた事がありましたのでご了承ください。 小笠原家仕官と宗旦の死 承応四年(1655)、すでに…

「小笠原家への仕官」と「不審庵と不審菴」

小笠原家への仕官 宗旦の頃、千家の茶の湯は京都を中心とした極限られた地域でのみ行われていたが、宗旦の次の代に宗左、宗室、宗守という息子達、そして宗徧をはじめとする宗旦の高弟達が大名家に仕える事により全国への広がりをみせたのである。 現在、千…

「草庵の侘び茶」

草庵の侘び茶 なぜ、これほどまでに宗旦は宗徧を育て上げたのか。 これは当然の疑問で、入門当時すでに三男江岑宗左は紀州徳川家への仕官を果たしており、宗徧の修行中にも四男仙叟宗室が三年間の総仕上げの修行を終え、仕官先を探しに江戸へ赴き、宗徧皆伝…

「宗旦の不審菴と今日庵、そして又隠」

宗旦の不審菴と今日庵そして又隠 宗旦はその生涯に一畳半の茶室を四つ造ったとされる。その内の三つは小川通りの千家内に建てられた。残りの一つは、前述した慶安二年(1649)に大徳寺芳春院に建てた宗旦最後の一畳半である。 宗旦が最初に建てた一畳半は、…

「宗徧ゆかりの長次郎焼盌」

宗徧ゆかりの長次郎焼茶盌 千原氏が唱えるように長次郎を世に出したのは宗旦である。宗旦は長次郎茶盌を数多く所持していたと思われ、宗徧は修行時代に宗旦から秘蔵の長次郎茶盌を数盌譲られている。それらを含む宗徧が箱書した長次郎茶盌のいくつかを列挙し…

「桂籠花入」と「お亀の文」

桂籠花入 この花入は宗徧が宗旦から譲り受けた利休所持の花入で、利休は桂川の漁夫が腰に下げていたこの魚籠に目を留めそれを貰い受け、鐶を付けて花入として秘蔵した。 宗徧はこの桂籠の花入を大変気に入った様で、箱書は無論のこと受筒にまで書付をしてい…

「鳴滝三宝寺 四方庵」と「琢如上人を迎えての茶事」

鳴滝三宝寺 四方庵 宗徧はその四方釜に因んで自らの庵号を「四方庵」とし、鳴滝にある三宝寺の東谷にあった塔頭「凉池院」に草庵を設けた。この三宝寺は後水尾天皇の御内旨を受けて日護上人を開山に迎え建立された中本山で正式には「金映山妙護国院三寳寺」…

「皆伝、そして力囲斎宗徧誕生」と「利休四方釜」

皆伝、そして力囲斎宗徧誕生 仁科周覚宗円は慶安四年(1651)皆伝を機に長徳寺の住職を辞し、還俗して母方の姓を名乗り、名を山田周学宗徧と改めた。周覚という名も、長徳寺住職としての道号であるので、宗徧は茶匠として独立した際に「周学」と改めた。以降…

「宗旦との逸話」

宗旦との逸話 新枕の茶入 宗旦と周覚の修行時代の逸話はいくつか伝えられている。それらを紹介したいと思う。 宗旦が石河宗因の茶事に招かれた際に、いつものように周覚も同伴することになった。お目当ては石河宗因所持の名物漢作唐物茶入「石河丸壺」であっ…

「修行時代の千家の様子」

修行時代の千家の様子 周覚が宗旦に入門した頃の事は前述したので、修行中の千家の様子を見ていくことにする。 周覚が入門した二年後の正保三年(1646)に宗旦はやっと紀州徳川家に仕えている江岑宗左に家督を譲り隠居を決意する。六九歳の宗旦はこの年、隠…

「千家での修行」と「大徳寺での修行」

千家での修行 当時の稽古は現在のものとは異なり、茶事を催しまた呼ばれる事を繰り返す即実践の稽古であったという。 後に宗旦の跡を継ぎ千家の嫡流(現在の表千家)を担った江岑宗左が著した「江岑茶書」をみると、周覚が正保四年(1647)、入門から三年後…

「千家と山田宗徧」 短編スタート!

今年は流祖山田宗徧没後300年、千宗旦居士没後350年の節目の年である。「ゆかりの道具」はひとまずお休みして、拙稿「千家と山田宗徧」を単項ずつ小出しに記事に掲載していきたいと思う。流祖宗徧が如何に宗旦居士に愛され、千家流の全てを授けられ茶…

宗偏ゆかりの道具 ~その二~

今日は去年12月号の表紙を飾った流祖の茶杓について。 流祖の茶杓の特徴、それは細く華奢な茶杓が多い事、そして筒は中身の茶杓がピタッと入り、中で茶杓がカタカタいわない事と云われている。 ただ、例外も中にはあってその例外にも素晴らしい茶杓もあるの…

宗偏ゆかりの道具 ~その一~

久しぶりに更新(1年以上ぶり・・)。 今後さらに更新して行きたいと思っているが、やっぱり記事を定期的に書くのは性に合わないので、時々更新出来る話題にしたいと思う。 タイトル通り、知音は昨年の四月号から流祖ゆかりの道具が表紙を飾っている。 この…