一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

茶道教室、再開致します。

はてなブログに移行後、初めての投稿になります。

約15年の年月を経て茶道教室を再開致します。

場所は東京から離れ、鎌倉の月光庵という貸し茶室とのご縁を頂きました。

http://gekko-ann.jp/

当分は月2回木曜日に教室を開きます。

時間は10:00〜17:00の間となります。

茶道に興味がある方で茶道というとなんとなく堅苦しいというイメージをお持ちの方、日本の文化には興味があるけど敷居が高くて一歩を踏み出せないでいる方(僕もそうでした)は是非遊びにいらしてください!

見学は無料です。

入会金、水屋料はなく、月2回のお稽古で月謝は1万円となっております。

質問等がございましたら、遠慮なくご一報ください。

080-7533-8813 岡本まで

お待ちしております。

宗旦四天王という称号について。

当流を紹介するにあたり手っ取り早く説明するのに使われる称号に表題の「宗旦四天王」という呼称がある。
流祖山田宗偏および藤村庸軒と杉木普斎は変動なく、もう一人を三宅亡羊か久須美疎安のどちらかにするのが通例であると思う。
四天王というからには意味合い的には当然の如く、宗旦居士から皆伝を得られ尚且つ皆伝者の中でも特に優れた高弟への称号という事になろう。
しかしながら実際には、それを確証するに足りる証拠を探そうとした場合、山田宗偏以外は何一つ根拠がないのが実情である。
少し前の資料であるが、2007年11月号の知音に熊倉功夫先生が書かれた「千宗旦と山田宗偏(一)」の末尾にこのように書かれている。
「いわゆる宗旦四天王の中で、弟子衆としては宗偏一人だけで、他の人々があげられていないことは注目されよう。
藤村庸軒は親族で、弟子とは別の区分であろうから、このリストに含まれないの当然として、杉木普斎、三宅亡羊、松尾宗二などの名がないことは、宗旦四天王という名辞がほとんど意味をなさないことを示すと同時に、山田宗偏の門弟のなかの位置をよく表しているともいえるであろう。」
弟子衆控に掲げられている人数は総勢三十四名であるが、宗旦から楽只三種を贈られた松尾宗二ですらその中に名が載っておらず、儒者の三宅亡羊は単に宗旦居士の友人や知人といった位置付けなのかもしれない。
親類の藤村庸軒は久田宗栄の次男で、兄の長男は久田宗全であるし、その弟は江岑宗左の養子となって表千家五世を継いだ随流斎宗佐であり、完全な千家との血縁であるので宗旦から明確に皆伝を得られる必要性もないであろう。
また久須美疎安は庸軒の女婿であるので、庸軒ですら皆伝の確証がないのであるからその血縁の範疇に含まれると思う。
御師であった杉木普斎に至っては宗旦に入門したのは間違いなさそうであるが、実は宗旦は普斎に皆伝を授けていない。
宗旦没後に杉木普斎に皆伝を授けたのは宗旦の次子で官休庵を興した一翁宗守である。
先にも述べたが、宗旦の皆伝者の中でも優れた門弟への称号である四天王に普斎を入れる事は事実を無視したものであるし、時々流祖の著書の対比として扱われる「普斎書き入れ便蒙抄」なる杉木普斎が便蒙に註訳を加えているものが取り上げられているが、茶の湯を秘事口伝として扱った普斎と流祖では全く相容れない対照的な存在であると思う。
また熊倉先生は宗旦四天王という呼称は昭和に入ってからの呼び名でなかろうかとも述べており、有名無実なこの称号について疑問を投げ掛ける次第である。

第十七 及臺子之事 その二。

○臺子を伝授するは、其の点前熟し、其の人品の善悪を見るべし。意の異なる人は、貌も異なり。直ぐき人は、貌も直ぐしと云えり。点茶の貌直ぐなれば、自然に心にようべし。然る則りは、極意は心気の執行専要なり。豈業のみにあらざる哉。茶道心を得るは、忠恕にもなり、修身斉家すべし。唯、風流と而己の心得は、富者は奢りに至り、侘人は異形になる。過ぎたると及ばざるの差、無き事を心にかくべし。動静二人の善を見ては、これに学び随い、不善を見ては顧みて改むべし。自糞の臭きは知れず云う。

及臺子の項に書かれている一文であるが、現代に新しいものを求める人がいる。
歴代の宗匠方が茶の湯を業としてその生涯を賭して築き上げて来たものを当流では活字で学べるのは本当に有り難い事である。
古い友人は、畳の上では利休は超えられないとまで言い切ったが、現代の我々が趣味として茶の湯に親しむレベルで新しいと思っている事は既に過去に捨てて行った事柄であると思った方が無難であるし、一挙手一投足にまで事細かに制定されている口伝部分も同様であるように思う。
奢った富者や異形の侘人が跋扈し、これが茶の湯と言わんばかりの現状に今後どう対応していくべきなのか。
答えは既に出ているが、元に戻す所業の難しさを想った時にこの陸安集がその指針としてかけがえのないものである事は間違いないし、これを残された当流の先人たちへの報恩を胸に次代へ繋げて行きたいと思う。

利休居士之一枚起請の文。

イメージ 1


写真は流祖の高弟、三河吉田の三高足の一人倚松軒帰誉の利休居士之一枚起請の写しです。
その下に流祖像が描かれてる画賛の賛の部分です。

意訳は以下の通り
唐土我朝にもろもろの知者の沙汰申さるる観念乃茶の湯にもあらず。また学文をし天ねんの心をさとりてのめる茶にもあらず。唯喉のかはきをやめむがためには、湯だにわかしぬればかならずやむと思とりて、疑いなくのめる外に別に子細候はず。但数奇と申す事のいは、萬其の内にこもれり。此の外に奥深き事を存ずるは、天のあはれみにもはずれ、数奇者にもいへし此の道を信せん人は、縦和漢の色々を得たりといふとも、一文不智之輩に同じて数奇者の振廻をせずして、唯一向に湯をわかすべし。
数奇者の安心起行此の一紙に至極せり。宗易が所存にだに別を存ぜず候。京童部の邪気をふせがん為の所存此の如くなり。」

この一枚起請の文は流祖が利休居士の写しを書いているので、その写しとなっています。
既に居士が没して400年以上経っていますが、在世中に京の町衆への警鐘として書かれたこの起請文の内容は現在においても有意義なものであると思います。
陸安集にも「茶人と云いながら、座敷様子ばかり躰をなし、不断、湯もなき人あり。是は又、一向に論にも及びがたしと宗圓、宗恕快談を記す」とあり、この起請文を意識したものであると推察します。
現代においてこれを唱える事は現状の殆どを否定する事ですし難儀な事と思われますが、全うして行きたいと考えています。

幕末、明治期の各派の状況 その九。

これで父と娘の了解成り、父は即刻水月師を訪問し、今日まで時習軒を等閑にせしを詫び、自分が後見となり娘は有難く時習軒を拝受する旨を答えました。水月師はこれでいつ何ん時死んでも時習軒の相続人は細田伊登と云う立派な茶人が継で呉れ、自分としては歴代の祖にも報告が出来、思い残す事は何もなく此の上の喜こびはない。と涙を流され心底から喜ばれたと聞いて居ります。
扨て何年何月改めて水月師立会の上で父より娘伊登に時習軒の譲り渡し式が行はれたかは私は残念聞いて居らず、最長老の武曽木斎も知りませんが、前後の事情より推察すると、明治二十年十二月、八世二十三才と思はれます。此の推察は的確と私は信じます。
なぜなれば、前号記載の如く八世が夫に死別し細田家へ戻りましたのが二十一才明治十八年其の時は懐妊して居りましたが、稽古熱心の八世は俗に謂う芸の虫で身重の体でも、嫁入後絶えて久しく懐しき水月師の処え、稽古に走ったと思はれ、懐胎の子を産み半歳の後其の子は死亡せし事情より、更に八世の父が水月師の窮乏を見て、老後を養う可き金子を贈ったのも八世の稽古復活が動機と思はれ、八世時習軒襲名披露は、譲り渡し式の翌年にて、水月師は連日半東を勤めたと聞く、更に水月師死亡は明治二十二年三月四日なり(位牌現存)、尚私の祖母(八世の母)の話を統合すると、時習軒譲渡の式は当時八世の父(私の祖父)の寮(今でいう別荘)当時の東京市本所区石原町九十一番地の囲ひで、水月師と父、娘の三人が入席し、他人の出入は一切厳禁され、約二時間に亘り何をしたか知らぬが、後で懐石となったが、自分は歳の瀬が近ついているので、此の為めに一日を潰され気がかりであったと云ふ。これ等を統合すれば、時習軒譲渡は前記明治二十年十二月八世二十三才は確実なり。
ここに特に記す事は、前号記載の如く時習軒は八世の父(私の祖父)が七世時習軒水月師より譲られ、完全に細田本家のものとなり、更にそれを自分の娘(私の伯母)八世に譲ったのであります。尚後記詳細しますが、八世没後私の父(八世の弟)も一時、時習軒を預りましたが、八世の娘宗玉に九世を継がせ、宗玉没後其の家絶家した為に再び細田家の本家に戻り、私が十世を継ぎましたが、私の祖父、父共に時習軒を名乗りませんでしたので、両名共歴代には入れません。世間では時習軒を誤解されて居られる方もあると聞いて居りますので、此の際時習軒社中の方々は此の事を明確に御記憶願いたい。
かくして細田伊登は父の屋号栄太楼の栄を取り入れ、宗徧流時習軒八世家元細田宗栄と茶号を改め、女ながら他流の宗匠をも威圧し、数歩を譲らせた大宗匠となった次才一歩を践出したのであります。

前回の時習軒会報(時習)十四号の八世宗衛 時習軒継承のことの続きである。
これが刊行されたのが、昭和三十年六月二五日なので八世の門人や九世の門人など、細田家の中でも分枝が進み少し混乱が見られたようである。
それを明確に整理しようと先代宗永師が冊子を以て試みたようであるが、誰を歴代に入れるかというのは厳密には難しい。
山田家においても、五世宗俊の娘婿竹林軒宗弥は実際に山田家を継承して小笠原家の茶頭として八年間も在職していたのにも関わらず、存在を抹消され歴代に数えられていない。
時習軒の水月尼に関しても自ら時習軒と著名してある資料を見たことないが、四世のはずの水谷義閑は任聴統譜に「故あって(時習軒の号を)用いず」とあるにも関わらず歴代入りしている。
(預かりという表現が妥当であり歴代を繋いでいるし、実際に義閑は軒号を預かっていた。)
当時の世情というか、その場の雰囲気で歴代が書き換えられるという事象が起きている事も加味すれば、それぞれの識者の意見は意見として尊重すべきと思われる。
水月尼のように自ら称号を名乗らなくても、自然と周りがそう思うような奥ゆかしい時代性を取り戻したいものである。
因みに八世は最初宗栄と名乗ったが、後に宗衛と改めていて現在の十一世は宗栄の茶号を用いている。

幕末、明治期の各派の状況 その八。

大変ご無沙汰しております。

とある方よりご要望があり、続きを書かせて戴きます。

これは昭和三○年六月二五日に刊行された時習軒会報(時習 十四号)に掲載されたもので、
「八世宗衛 時習軒継承のこと」という表題がついている。

早速娘伊登に申し渡すと「私は時習軒八世を継ぐ等とは空恐ろしく夢寝だに思わず。例え師の御推薦なりとも、歴代の祖を恥ずかしむるばかりにして、茶道の精心等は辨えぬ自分が何で時習軒を継ぎ得ませうや、お父上こそ時習軒を後世に伝えべき方なり、是非共御継ぎ下さる様」
父「己は宗徧流は辨えぬお前も知る如く石州流なり、然し、他流の何れを拝見しても、宗徧流に勝る点前なしと決断して、お前を宗徧流の時習軒六世吉田宗賀師に入門させた。然るに、其の後裔七世水月師の推薦により八世を襲名させよとの事である。喜んで御受けせねば茶道の道に反する。お前が辞退せば時習軒は永久に絶ゆるのだ。時習軒はお前も承知の如く流祖の高弟宗伯が特に免状発行を許され、時習軒の門弟より家元へ養子に送り、家元となった者もあり、家元とは血統こそ続いて居らぬが、茶道としては本家分家の家柄である。かかる名家が絶家するとも構わぬのか」
娘「私は茶道として名家が絶する事は此の上もなき残念な事と思いますが、自分には時習軒を守る自信がありません」
父「よし己は宗徧流は知らぬが茶道の道は同じだ。名家が絶ゆるのを何で傍観して居られよう。己はお前の後見として立つてやる安心して継げ」
娘「お父上が後見をして下されば私には何の云い分がありませう。勿体無くも喜んで有難く拝受致します」
以上は私の祖母(八世の母)より聞きました通り赤裸々に綴りました。

時習軒を吉田水月尼から継承した際の細田家の口伝部分であり、前述の資料を鑑みれば、この問答が行われたのは明治二十年の年の瀬の事と思われる。
脇坂安斐侯による明治帝への献茶の半東を勤めた細田宗衛は、安斐侯が東京を退去して龍野に戻ったその年に時習軒を継承する事になり、これ以降、時習軒は細田家に護持され現在に至っている。
また上記文章の中で、吉田宗賀を六世、水月尼を七世としているのは、五世柳澤閑清が欠如しているが故で、現在は水月尼を歴代から除く事によって改訂されている。
時代は容赦なく刻々と変化を遂げ、幕末明治という前代未聞の激動の中でやっと新時代の安定を見る事が出来、茶の湯の世界においても徐々に落ち着きを取り戻しつつあった頃の話である。
結果から言えば、六世吉田宗意の娘として、父と夫を影から支え、そして最終的には自分自身が流儀の衰退期に時習軒としてその茶法および伝来の道具一式を守り通して新時代を迷う事なく生き抜き、若い宗衛の素質を見抜き次代を託した水月尼という存在を得た事は当流にとって本当に有り難い事であったと気付く。
時習軒二世の岡村宗恕も若い宗賀(後の松見)の素質を見抜いたと同じように、こうした的傳を適宜、時代時代で行って来たのが当流が現在にまで継承出来た理由である。
水月尼が安斐侯へ贈った力囗斎譲り状の一節「人に無之おゐてはみたりに伝授あるましく」こそ、当流が当流である所以であると思う。

幕末、明治期の各派の状況 その七。

偖当日は早朝心身を清め、父親に伴はれ脇坂邸へ上がりました。
当日の服装、髪の結方等は祖母から聞きましたが、少年時代の私や武曽師も男子の事とて餘り興味もなく、総て失念してしまいましたが当日の模様で記憶している事を綴りますれば、脇坂様では両殿下を仰ぐ為、当日の御使用として二十畳の広間に畳縁高欄付、更に八畳位の上段の間を新築し、両陛下の御座所と定め、玄関には幔幕を張り回らし、塵一つ止めぬ清浄さで八世と父は何間か隔った控の間へ通され、軈て刻限になり、八世は侍女に伴われ水屋へ這󠄀入りました。
脇坂様は、真台子(時習軒の定は及台子ですが、此日は定を破り特に真台子を使用、並に薄茶を点る)にフロックコートを着され初より覆面、八世は常の半東の位置にて、是亦覆面し平伏して居り。
愈々、点前は始められてましたが、元より八世は面は上げられず、点茶成るや、先づ、一服を天皇陛下に献り、続いて皇后陛下に献り、皇后陛下の御服み終りを拝して、脇坂様は、今一服をとお伺い申し上げますと、天皇陛下は「よし」と玉音があり。皇后陛下は「今一服」と御所望遊ばされ、二服召上がったのでありました。
両陛下に、八世が捧持しました時は、龍顔はおろか玉体さえ眼に入らず、神威に打たれ僅に御膝元を拝し、見当をつけ、習った通りに献ったのでしたが、皇后陛下に二服目を献った時は、畏多くもお顔を拝したところそのお顔はお人形様の様で、小柄の御体でとても人間とは思えぬ御神品で在らせられたと、よく申して居りました。
脇坂様の最後の御挨拶で、無事に献茶は終わったのであります。
今私が想像しますと、脇坂様のフロックコートの点前も妙な形で、八世は何れ普通の髪型で、御前に出られる筈はなく、定めし当時の宮中で少女の型、現在の巫女の様なかっこうであったと思うのであります。

献茶の一部始終を詳細に記録してあり、とても面白い資料であると思う。
文中にある様に、時習軒では本来、及台子を以て台子の点前をするのであるが、安斐侯は世間一般に倣って真台子にて薄茶を献じた様である。
しかも、フロックコートにて点前をするという斬新な試みもしていて、袱紗を何処に挟むかと思いきや胸ポケットに挟んで点前をしたというエピソードは殊に有名である。
両陛下に二服ずつ、当然天目で御前に四度も捧持するというのは十七才の宗衛にはかなりの負担であったと想像に難しくないが、滞りなく無事に半東の勤めを終えた。
なお、文中にはないが時習軒小史にはその褒章として羽二重一匹を御下賜されたとの記載がある。
安斐侯にしてみれば、新時代の旗手として二度に渡り、天皇陛下および皇后陛下への献茶を奉り、明治十八年(1885)に書かれた「力囗斎額面他家へ不可譲渡約定書」にある様に「安斐在世之際ニハ山田家ヲモ中興サセ大ニ当流ヲ維持セントスル云々」と当流の隆盛に並々ならぬ自信と展望を抱いていたが、残念ながら歴史はその通りにはならなかった。
安斐侯が東京を離れ、龍野に戻ったのはその二年後の明治二十年(1887)の事でその同じ年、明治二十年の年の瀬も迫った十二月に水月尼は宗衛に時習軒を譲った。
宗衛二三才の事であった。