一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

幕末、明治期の各派の状況 その九。

これで父と娘の了解成り、父は即刻水月師を訪問し、今日まで時習軒を等閑にせしを詫び、自分が後見となり娘は有難く時習軒を拝受する旨を答えました。水月師はこれでいつ何ん時死んでも時習軒の相続人は細田伊登と云う立派な茶人が継で呉れ、自分としては歴代の祖にも報告が出来、思い残す事は何もなく此の上の喜こびはない。と涙を流され心底から喜ばれたと聞いて居ります。
扨て何年何月改めて水月師立会の上で父より娘伊登に時習軒の譲り渡し式が行はれたかは私は残念聞いて居らず、最長老の武曽木斎も知りませんが、前後の事情より推察すると、明治二十年十二月、八世二十三才と思はれます。此の推察は的確と私は信じます。
なぜなれば、前号記載の如く八世が夫に死別し細田家へ戻りましたのが二十一才明治十八年其の時は懐妊して居りましたが、稽古熱心の八世は俗に謂う芸の虫で身重の体でも、嫁入後絶えて久しく懐しき水月師の処え、稽古に走ったと思はれ、懐胎の子を産み半歳の後其の子は死亡せし事情より、更に八世の父が水月師の窮乏を見て、老後を養う可き金子を贈ったのも八世の稽古復活が動機と思はれ、八世時習軒襲名披露は、譲り渡し式の翌年にて、水月師は連日半東を勤めたと聞く、更に水月師死亡は明治二十二年三月四日なり(位牌現存)、尚私の祖母(八世の母)の話を統合すると、時習軒譲渡の式は当時八世の父(私の祖父)の寮(今でいう別荘)当時の東京市本所区石原町九十一番地の囲ひで、水月師と父、娘の三人が入席し、他人の出入は一切厳禁され、約二時間に亘り何をしたか知らぬが、後で懐石となったが、自分は歳の瀬が近ついているので、此の為めに一日を潰され気がかりであったと云ふ。これ等を統合すれば、時習軒譲渡は前記明治二十年十二月八世二十三才は確実なり。
ここに特に記す事は、前号記載の如く時習軒は八世の父(私の祖父)が七世時習軒水月師より譲られ、完全に細田本家のものとなり、更にそれを自分の娘(私の伯母)八世に譲ったのであります。尚後記詳細しますが、八世没後私の父(八世の弟)も一時、時習軒を預りましたが、八世の娘宗玉に九世を継がせ、宗玉没後其の家絶家した為に再び細田家の本家に戻り、私が十世を継ぎましたが、私の祖父、父共に時習軒を名乗りませんでしたので、両名共歴代には入れません。世間では時習軒を誤解されて居られる方もあると聞いて居りますので、此の際時習軒社中の方々は此の事を明確に御記憶願いたい。
かくして細田伊登は父の屋号栄太楼の栄を取り入れ、宗徧流時習軒八世家元細田宗栄と茶号を改め、女ながら他流の宗匠をも威圧し、数歩を譲らせた大宗匠となった次才一歩を践出したのであります。

前回の時習軒会報(時習)十四号の八世宗衛 時習軒継承のことの続きである。
これが刊行されたのが、昭和三十年六月二五日なので八世の門人や九世の門人など、細田家の中でも分枝が進み少し混乱が見られたようである。
それを明確に整理しようと先代宗永師が冊子を以て試みたようであるが、誰を歴代に入れるかというのは厳密には難しい。
山田家においても、五世宗俊の娘婿竹林軒宗弥は実際に山田家を継承して小笠原家の茶頭として八年間も在職していたのにも関わらず、存在を抹消され歴代に数えられていない。
時習軒の水月尼に関しても自ら時習軒と著名してある資料を見たことないが、四世のはずの水谷義閑は任聴統譜に「故あって(時習軒の号を)用いず」とあるにも関わらず歴代入りしている。
(預かりという表現が妥当であり歴代を繋いでいるし、実際に義閑は軒号を預かっていた。)
当時の世情というか、その場の雰囲気で歴代が書き換えられるという事象が起きている事も加味すれば、それぞれの識者の意見は意見として尊重すべきと思われる。
水月尼のように自ら称号を名乗らなくても、自然と周りがそう思うような奥ゆかしい時代性を取り戻したいものである。
因みに八世は最初宗栄と名乗ったが、後に宗衛と改めていて現在の十一世は宗栄の茶号を用いている。