一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

2007-04-01から1ヶ月間の記事一覧

四方庵、代田宗真の茶系(四方庵五世について)

四方庵、代田宗真の茶系(四方庵五世について) 代田宗真(真学、陸沈斎、後に四方庵と号す)は時習軒七世吉田宗賀の門弟とされ、脇坂宗斐侯の茶頭を勤めたとされる。 そして、後に菅沼游鴎侯から四方庵を譲られた同門の誉田宗義からその庵号をも譲り受け、…

「明治の混乱そして大正の大同団結」

明治の混乱そして大正の大同団結 明治維新は新時代の幕開けとして諸外国からは奇跡の革命とも言われているが、幕藩体制の崩壊により旧来の秩序が乱れ、茶道の分野においても大名の扶持を離れ厳しい状態に追いやられていた。 山田家では文久三年(1863)に六…

「力囲斎のゆくえ その二」

話は戻り、新たに小笠原家の茶頭となった宗学は不審庵九世を継承したが、宗俊の力囲斎は名乗らなかったようである。 前述のように宗俊が小川平兵衛へ力囲斎を譲ってしまった故かもしれない。ただ、宗学の代わりに宗学の養父、吉田宗意が力囲斎を名乗っている…

「力囲斎のゆくえ その一」

力囲斎のゆくえ 流祖宗徧は、自らの斎号である「力囲斎」を小笠原家の家臣で優秀な弟子であった相良市左衛門(宗因、斎宮と号す)に譲った。 力囲斎の号は、流祖と親しかった祥山宗瑞筆の「力囲」の紙額がその証になっていたとされ、その後の斎号伝授の際には…

「今日庵 鳥居宗逸」

今日庵 鳥居宗逸 鳥居宗逸(茂兵衛、江戸小網町の米殻商で一僊斎、不択軒と号す)についても資料が限られ宗逸像は不明瞭である。ただ、如是我聞の茶杓を鳥居宗逸に贈った際の宗徧の消息が現存するので以下に全文を掲載する。 如是之茶杓来由故実老拙常に申談…

「龍渓写本陸安集」

そして、この山田家の許状と共に龍渓が三河に残したものがある。それは岡崎の明願寺に所蔵されている龍渓自らが筆写した陸安集である。 これは、龍渓の高弟であった明願寺の当時の住職、弟也斎慈玄老師へ贈られたもので、月雪花の三冊とそれに付随する及台子…

「不蔵菴龍渓」

不蔵菴龍渓 不蔵菴龍渓(姓は不詳、晩年は耳聾菴、耳聾軒とも号す)は宗徧流の茶人達の中では、流祖宗徧に次いで著名な茶人であろう。現在も東京市ヶ谷にある洞雲寺の十五世住持で、水谷義閑に宗徧茶の湯を学んでいた。 この龍渓は、前述の義閑茶会録にその…

「雨雪庵、水谷義閑」

雨雪庵、水谷義閑 水谷義閑は寛保三年(1743)に生まれ、山田家四世漸学宗也と同い年で共に神谷松見に学んでいる。 水谷(みずのや)家は、元々常陸の下館三万二千石の大名であったが、備中成羽五万石、そして同国松山五万石へ転々と封地を変え、元禄六年(1…

「時習軒のもう一つの流れ」

時習軒のもう一つの流れ 時習軒二世岡村宗恕には百五十人の門人がいたといわれ、高弟としては時習軒を継いだ神谷松見と、宗恕自らの庵号「名利庵」を譲った深澤伊左衛門(聴松と号す)が知られている。 神谷松見については前項で詳しく述べたので、ここでは…

「神谷松見と陸安集」

神谷松見と陸安集 神谷松見(初名は宗賀、宗恕が自らの号を松恕と改めた際に松見と改める)は土井大炊頭の侍医で、岡村宗恕の門に入る以前に石州流を学んでいたといわれている。 それは、松見の父で同じく土井家の侍医であった神谷貞閑が石州流を学んでいた…

「時習軒その始まり」

時習軒その始まり 時習軒初代岡村宗伯(新右衛門重勝、時習軒の他に雨雪庵と号す)は江戸三十間掘の材木商で、宗徧から今日庵を譲られた鳥居宗逸とともに豪商として名高く、江戸における宗徧のパトロン的な存在であったといわれている。 当時の江戸は百万都…

「江戸における宗徧の高弟たち」

江戸における宗徧の高弟たちまた、もう一つの疑問がある。それは宗引が小笠原家の茶頭を継承した元禄十年(1696)時点の事についてである。この時、宗引が宗徧の跡目を継いだという事は、宗引はすでに小笠原家の茶頭として宗徧茶の湯の全てを引き継いでいた…

「山田家のゆくえ その三」

山田家のゆくえ その三 では、話を進めてその後の山田家について述べてみたいと思う。 小笠原家に武家として仕えた宗屋の家は、茂右衛門の後嗣に宗興という男子がいたが、この宗興も茂右衛門が存命中、享保二一年(1736)に夭折してしまい、茂右衛門の死をも…

「山田家のゆくえ その二」

山田家のゆくえ その二 この継承の場に次男宗屋が山田家の嫡流として立ち合ったという事を鑑みれば、その時点での宗徧の意志が自ずと見えてくるであろう。 それは、山田の家は武家として小笠原家に仕え自らが創始した茶の湯は甥の宗引(宗屋の娘婿)の福与家…

「利休正伝 宗徧流の歴史」続編

山田家のゆくえ その一流祖宗徧にはどのような意志があったのであろうか。小笠原家に茶頭として仕え、武家の中で利休流の茶法を広めるべくその生涯の大半を過ごし、その著書である茶道便蒙鈔や茶道要録などは侘茶を基本にしながらも、武家の中でのマナーを紹…

「宗徧の死」

宗徧の死茶道宗徧流の流祖山田宗徧は、宝永五年(1708)四月二日(陽暦では五月二一日)に八二歳にて没した。宗徧は浅草の東本願寺の塔頭であった願龍寺に葬られ、遺言により墓石の代わりに石灯籠を置き、その傍らには宗徧遺愛の紅梅の木を植えたという。ま…

「宗徧と宗偏」

宗徧と宗偏現在、行人偏の「徧」の字が、茶道宗徧流ひいては山田宗徧の正式名称となっており、これを疑う者はあまりいないと思うが、宗徧流にゆかりある多くの著書や書付をみると、人偏の「偏」の字も多く用いられており、あまりにも区別されず双方用いられ…