一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

2007-01-01から1年間の記事一覧

第五 座入りして作法の事 便蒙二 四左 その五

一、茶に行きて、他へ行きたる時分の善悪等、咄すべからず。或門人、宗徧の茶に行きて、去る頃、外へ行きたるに、朱のむさき膳椀出だしたり、とてそしりければ、宗徧勝手にて、是を聞きて、数寄屋へ出で、我等事は朱椀ならでは持たず候。承り候えば、朱は御…

第五 座入りして作法の事 便蒙二 四左 その四

一、茶主、功者なれば、約束なくとも客中、心安き者あれば頼みて、押しかけ行きてくるしからず。其の時は、参着の案内云い入る時に、誰と申す仁かねて懇望に付き、押しかけ参りたる段、云い入るべし。尤も、座敷にても挨拶、其の通り有るべし。又、前以って…

第五 座入りして作法の事 便蒙二 四左 その三

一、狭き所なれば、二人立つ事あしく、但し、座する所、一間ならば、正客、床際へ詰めて居て宜し。四畳半、三畳敷、其の外広座敷にて、一間半もあらば、上座をあけて下座の方に、三人共寄りて着座。二客、一客、猶更此の心得第一なり。三人共に、ならび居る…

第五 座入りして作法の事 便蒙二 四左 その二

一、正客床前へ行き、両手をつき、懸物を見る。それにて、見えざる時は其の後、立ちて見てよし。其の文句高く読む事あるべからず。前に記す意なり。扨て、炉前へ行き、釜、又は、棚の置合を見るべし。堂庫ある座敷にて、むさと、戸を明くべからず。内に飾り…

第五 座入りして作法の事 便蒙二 四左 その一

一、座入の事、惣じてよくよく考えざれば、騒がしきものなり。上座は正客に随いて定むべし。他の流れの者と、客中組み合いたる時、当流か様、末流は非議など心得たる時は、かえりて失礼にも出来るものなり。自分正客たらば、心得たる通りにすべし。 現在でも…

第二 夜咄の事   便蒙四 三左

一、夜咄しに、廻り炭と云う事あり。是は、座中しみたる時、火ながれて直す時分に、主客の挨拶次第なり。客の内、一人出て炭を致し、扨て、湯沸りたる時に、是も、主客の内にて、薄茶を点つるなり。其の火ながれて、又、一人出でてする事なり。幾度も此の如…

第十七 及臺子之事

一、當世及臺と云うは、香臺に似たる物なり。然らず。当流には、二本足の臺子を云う。尤も、寸法あり。臺子の茶の湯と云うは、是なり。座席の隅、表の方畳目六つ、勝手の方七つ目。後(臺子の向こうの明きのこと)の寸法は、表と同寸に置くなり。炉の時は、…

第十九 後の火直す事 便蒙一 二十七左 その二

一、数寄屋は、不断茶の湯沸し置くなれば、不時の客などの時、下つかえたらば客へ辞義に構わず、下を取りて炭置かで叶う間敷きなり。又、夜噺・廻り炭の時、度々にて下つかえ候得ば、下を取るなり。 前回とほぼ同様な内容である。 「不断茶の湯沸し置く」事…

第十九 後の火直す事 便蒙一 二十七左

一、後の火直す時に、下取りを用うる事は、古しえ侘人、埋火にて直に、茶事をもうけたるに寄る。二度目に、下つかえたる時は、下を取るなり、当代は、客を呼び候時あらため灰を直すなれば、中々二三度にて下つかえ、隅仕がたき事なし。当代は、客より下御取…

第五 炉中の灰の事 便蒙一 六左

一、口切の時、暖かなれば、炭すくなく置くゆえなり。灰多く入るるなれば、おのずから、ふところ少なく、隅も大きにするなり。春になり、風炉に揚ぐる時分も此の心得なり。末流には、十月朔日より炉、四月朔日より風炉に揚ぐるといえども、当流に構いなし、…

第十七 置合の事 便蒙一 十九右より二十左まで

一、座敷掃除済み、道具の置合も済みて、客座入の案内に潜りの戸三つふせ程、明け懸るというは、是古代の法なり。当時は同輩にても戸を明け、下へおりて挨拶あるべし。当世は主客の挨拶も殷懃を専らとする事なれば、古法なりとて、故もなく守る時は却って失…

第十八 茶点様の事 便蒙一 二十紙左より二十七左まで そのニ

一、指の力は柄杓のおもみに応じたるがよし。諸道具の持ち様、是にて了簡あるべし。此の心得、当流点茶の眼とするなり。たとえば、柄杓を持つ力にて茶杓を持ちたる時は、茶杓に勝ち過ぐる。茶入を持つ力にて水壺は持ちがたし。其の器に応じざる時は、一遍の…

第十八 茶点様の事 便蒙一 二十紙左より二十七左まで その一

一、老人は建水の内へ蓋置を入れ、柄杓を載せ、左手に持ち出ずべし。右の手、明きたる時は立居自由にてよろし。右勝手の時は右に持つべし。左右に分け持ち出ずる時は、勝手の構いなし。「便蒙」に書ける所、悪しし。惣じて「便蒙」に筆者、文言の誤りある故…

第三 同客方の事  便蒙三 六左

一、風炉にて、御茶申すべしとある時は、其の時節不相応なり共、足袋をはかずして参るべし。風炉は、初めに書きたるごとく、世間暖気にて釜を、主、あくるなれば、亭主の意に応ずる心なり。さりながら、病身の人、老人は、夏たり共、勝手次第たるべき事なり…

第十三 炉の火直す事 便蒙一 十二左より十五右

一、灰土鍋の灰、前に記すごとく、杉形に沢山に入るべし。灰少きは初心に見えて当流に嫌う。宗旦、茶事致されし時、勝手へ来り合いたる人の咄しに、此の間、外へ茶事に参りたるに、土鍋の灰、余り入れよう多くて見苦しといいけるに、折節、宗旦、炭に出ずる…

道具取合の事 その三

茶入と茶杓 炭斗と火箸とのごとし。茶入の大に、長きを用ゆ。小ぶりには短かきを用ゆ。末流に茶杓の寸法定るよし。当流にて、茶杓寸法不定と知るべし。当流にては、茶杓・茶入の伝授重し。中にも茶杓は、禅家の拂子の如し。当流の極意なり。宗旦より宗徧への…

道具取合の事 そのニ

炭斗と火箸 一、夏は打延を用い、唐金さはり。紹鴎所持はさはりにて、龍頭羊頭なり。名物火箸は、長板、臺子には柄杓立に建てる。取扱い建てよう、其の所の図に記すなり。鉄打延、利休好みの形有り。惣じて打延を冬遣わざる事は、つめたき故に老人、朝など持…

道具取合の事 その一

第二十二 道具取合の事 釜と炭斗 便蒙一 三十右 一、大釜は、小ぶりの烏府、小釜は、炭斗大ぶり然るべし。釜、大小の内にても、釜高きには炭取下く、釜ひきくは、炭取高く、此の了簡にて取り合わすべし。夏には必ず、組物菜籠なり。冬は、瓢を用う。さりなが…

第二十 薄茶の事  便蒙一 二十八左 その二

一、薄茶点つる習いの心得あり。濃茶は、さむる事をいといて、さらさらと点つるなり。薄茶は、其のいといなければ、静に爰にて茶を点つる点前の心持ちを、真にいたすべし。惣じて、薄茶の点て様、一通り手熟すれば、万事の手前なりよき物なり。此の故に、宗…

第二十 薄茶の事  便蒙一 二十八左 その一

一、客も亭主も隙にて、緩々と咄ある時は、二度めの火うつり、湯煮えたる時分、薄茶点つるべき由を云いて、水壺持ち出で、諸道具段々持ち出で、茶を点つる事なり。其の品濃茶におなじ事にて、釜の中蓋もせず、客、茶、呑む内も蓋閉めざるなり。外に替わる事…

盆立の事 便蒙三 六右

一、盆点、臺天目、臺子は古実故に、習いとする。然れども、末流のごとく、当流に秘事とする事はこれ無し。其の人の点前手練する時は、追々其の位にてゆるす。又、初学の人たり共、貴人招請か、茶入拝領の時は、其の人の所望によりて、これを免す。其の故に…

不時の茶の湯の事 その二

一、座中、床に掛物、花あり共、其の儘置きてよし。花は前方より入れ置く。別前より入りたるように見え候わば、其の儘置くべし。客、案内を云い入れざる前近く、花を入れ、客の為にもうけたるようならば、必ず取り入れて座敷に置くべからず。此の事、当流の…

不時の茶の湯の事 その一

第三 不時の茶の湯の事 便蒙四 一、客尋ねて参り候時は、まず御尋ね過分、忝の由申し出て、客を中くぐりの外に、またせ置くなりという事。是、初めに書きたる如く、古代待合という所、これ無き事なり。当代待合を、用意する事なれば、幸いの事なり。其の所へ…

当代の茶の湯

陸安集に以下の文章がある。 「当代は数寄屋を茶の別室に心得、茶の湯一通り首尾よく済む。主客、御草臥にてあらん、座敷へお通り休息あれといわんばかりの仕方なり。然るに其の筋はあきて外座敷へ通る事、面白からず、気づまり、草臥る程ならば、広座敷持ち…

「仕官の茶そして草庵の茶」と「利休正伝 宗徧流の歴史」のあとがき

「仕官の茶そして草庵の茶」と「利休正伝 宗徧流の歴史」のあとがき 流祖宗徧以降の歴史は小笠原家の茶頭として幕末まで仕えた山田家と、高弟岡村宗伯の時習軒が車の両輪のように協力し合い、その茶の湯の普及の為に尽力した。その結果、多くの優れた茶人達…

「千家と山田宗徧」のあとがき

「千家と山田宗徧」のあとがき 茶道宗徧流の流祖山田宗徧は、千利休の孫の千宗旦に師事し、たった八年で皆伝を授けられた俊秀である。宗旦は皆伝の証に利休伝来の四方釜を譲り、宗徧は自らを「四方庵宗徧」と名乗った。また、宗旦は後に現在の表千家、裏千家…

四方庵、代田宗真の茶系(四方庵五世について)

四方庵、代田宗真の茶系(四方庵五世について) 代田宗真(真学、陸沈斎、後に四方庵と号す)は時習軒七世吉田宗賀の門弟とされ、脇坂宗斐侯の茶頭を勤めたとされる。 そして、後に菅沼游鴎侯から四方庵を譲られた同門の誉田宗義からその庵号をも譲り受け、…

「明治の混乱そして大正の大同団結」

明治の混乱そして大正の大同団結 明治維新は新時代の幕開けとして諸外国からは奇跡の革命とも言われているが、幕藩体制の崩壊により旧来の秩序が乱れ、茶道の分野においても大名の扶持を離れ厳しい状態に追いやられていた。 山田家では文久三年(1863)に六…

「力囲斎のゆくえ その二」

話は戻り、新たに小笠原家の茶頭となった宗学は不審庵九世を継承したが、宗俊の力囲斎は名乗らなかったようである。 前述のように宗俊が小川平兵衛へ力囲斎を譲ってしまった故かもしれない。ただ、宗学の代わりに宗学の養父、吉田宗意が力囲斎を名乗っている…

「力囲斎のゆくえ その一」

力囲斎のゆくえ 流祖宗徧は、自らの斎号である「力囲斎」を小笠原家の家臣で優秀な弟子であった相良市左衛門(宗因、斎宮と号す)に譲った。 力囲斎の号は、流祖と親しかった祥山宗瑞筆の「力囲」の紙額がその証になっていたとされ、その後の斎号伝授の際には…