一寸庵のブログ

茶道宗徧流について書いてます

利休居士之一枚起請の文。

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写真は流祖の高弟、三河吉田の三高足の一人倚松軒帰誉の利休居士之一枚起請の写しです。
その下に流祖像が描かれてる画賛の賛の部分です。

意訳は以下の通り
唐土我朝にもろもろの知者の沙汰申さるる観念乃茶の湯にもあらず。また学文をし天ねんの心をさとりてのめる茶にもあらず。唯喉のかはきをやめむがためには、湯だにわかしぬればかならずやむと思とりて、疑いなくのめる外に別に子細候はず。但数奇と申す事のいは、萬其の内にこもれり。此の外に奥深き事を存ずるは、天のあはれみにもはずれ、数奇者にもいへし此の道を信せん人は、縦和漢の色々を得たりといふとも、一文不智之輩に同じて数奇者の振廻をせずして、唯一向に湯をわかすべし。
数奇者の安心起行此の一紙に至極せり。宗易が所存にだに別を存ぜず候。京童部の邪気をふせがん為の所存此の如くなり。」

この一枚起請の文は流祖が利休居士の写しを書いているので、その写しとなっています。
既に居士が没して400年以上経っていますが、在世中に京の町衆への警鐘として書かれたこの起請文の内容は現在においても有意義なものであると思います。
陸安集にも「茶人と云いながら、座敷様子ばかり躰をなし、不断、湯もなき人あり。是は又、一向に論にも及びがたしと宗圓、宗恕快談を記す」とあり、この起請文を意識したものであると推察します。
現代においてこれを唱える事は現状の殆どを否定する事ですし難儀な事と思われますが、全うして行きたいと考えています。